酸いも甘いも

苺ジェラシー

 あ、と思ったときには、すでに遅く。
 無意識に手が伸びてしまったそのパッケージのパックを取り出した。
 いつもは彼が飲んでいる、飲み物。
『ミルクたっぷり!いちごオレ』
 隣にいないことをなお意識させるその文字を、エステルは恨めしく
思った。

 バレンタイン―――好きな人にチョコレートを贈る日。
 私立ヴェスペリア学園に通うエステルも、もちろん贈る気だった。
 だったのだ。本当に、今日までは。
 脳裏によみがえる光景に、エステルは悄然と肩を落とした。
(ユーリは、優しい)
 太陽の光。滅多に使うことのない階段の踊り場。
 女の子とユーリ。突き出された赤い包み。
 背中しか見えなかった。ユーリには見えていないはずだった。
 なのに、エステルはそれを見た瞬間に理性が及ぶ範囲で静かにその場
から離れた。

(ユーリは、口は悪いけど本当に悪い人ではなくて、強くて優しくて、
なんだかんだ言って面倒見がよくて、私はそんなユーリが…)
 好きだって伝えたくて。
 知ってるって、いつもみたいに言ってほしくて。
 だから。
 ぐるぐるといやな気持ちがめぐる。
 子供みたいに嫉妬して、用事があるなんてフレンに伝言してまで一人
で帰っている。
 それなのに立ち止まった自販機で彼の大好きなジュースを買っている。
(なにやってるんでしょう…)

 あそこにいかなければよかった。
 放課後に必ず一緒に帰るのだから、その時でよかった。
 むしろ朝に下駄箱に入れておけばよかった。

 後悔が尽きないまま、ストローを差して一口飲んだ。
『ミルクより苺増やしてほしいけどな』
 なんて言いながら結局いつも買っている姿。
 右手にパックを持って、左手で時々エステルの手を握って。
 真っ赤になっている自分を見て満足そうに笑っている彼。
 涙がこぼれそうになって、慌てて袖口で目元を押さえる。
(帰らなくちゃ…)
 遅くなればヨーデルたちに心配をかけてしまう。
 早足で歩き始めたエステルは、渡せなかったその包みの行方を考えた。
 そういえば、最寄の書店の店長が男性だった気がする。
 いつもいい本を紹介してくれるし、渡してしまおう。
 押しつけだと気づいていたが、どうしても捨てることができない。
 でもユーリを思って作ったものだから、やはりそれもどうなのか。
 せっかく歩き出したのに数メートルで立ち止まり、散々迷う。
(…やっぱり自分で食べましょう…)
 自分が勝手に渡さなかったものだ。人に投げるのはよくない。
 そう決めて再度歩き出したエステルの背で、ゴトン、と音がした。
 女の子たちの明るい声がする。
 誰に渡したとか、誰それがいくつチョコレートをもらっていたとか、
ホワイトデーは何がいいとか、そんな話を―――エステルがユーリと
したかった話をしながら、彼女たちはエステルを追い抜いていく。
「いいな……」
 ポツリと本音がこぼれた。
 私も、そんな話がしたかった。
 ため息が出そうになって、もう一口飲む。
 ふんわり漂う苺の香り。
 スタスタ、と誰かがまた背後から歩いてきた。
 そんなに自分は歩くのが遅いのかと、心持ち速度をあげる。
 だいたい、顔を見ないために早く抜けてきたのにこれでは意味がない。
(でも今日は部活の助っ人があるって言ってましたし、大丈夫です)
 さすがに部活が終わるころにはエステルは帰宅している。
 コツコツ。スタスタ。
 コツコツ。スタスタ。
 一定のリズムで拍を刻む。
 沈んだ気持ちが少しだけ浮いて、エステルは振り返らずにまた速度を
上げた。
 コツコツコツ。
 すると後ろの足音がそれより速度を速めた。
 抜かしていくのだろう、とエステルは少しさびしくなった。
 でも小さな、短いリズム遊び――あくまでエステルとしては――のおか
げで、さっきより気分は軽くなった。
(明日、ちゃんと謝らなければ)
 理由までは言えないけれど、今日だってユーリのことを待って、一緒に
帰る約束をしていたのだから。
 足元のほんの少し先の路面を見ていたエステルの視界に影が落ちる。
 見慣れたチェック柄のズボンが掠めて、反射的にエステルは顔を上げた。
「―――!」
 驚きで声をなくしたエステルに、その人物はやれやれとため息をついた。
「オレの彼女さんは生徒会長をパシってまで一人で帰宅したかったの?」
「ち、ちがっ」
 声を上げたエステルに、ユーリは間髪いれず聞く。
「じゃあなんで」
「それ、は、ええと…図書館に寄りたくて! でも長くなりそうでしたし、
つき合わせるのが、申し訳なくて。それで」
 事実、市立図書館に行きたいとは思っていた。
 …今日ではなかっただけで。
「お前の本好きは身にしみてるから、いまさらな遠慮だな」
「う…っ」
 本好きが災いしてかけた迷惑が思い出されて言葉に詰まる。
「言えよ。なんか言いたいことあるんじゃねぇの?」
「なにも、ないです。あ、いえ…一緒に帰れなくてすみません」
「……」
「そういえばユーリ、助っ人はどうしたんです? 今日でしたよね」
「エステル」
「ユーリの活躍してる姿ってとても素敵ですし、皆さん楽しみにしていた
と思いますよ?」
 昼間の女の子が思い出されて、エステルは振り払うように続ける。
「オファーがここまでくるなんて、ユーリは本当に頼られてるんですね」
「エステル」
「なんだか、もったいないです」
 言った瞬間、涙が転がり落ちた。
 思い切りユーリから顔を背ける。
 悲しくて、悔しくて。
「エステル、こっち向けって」
「や、です…っ。いまユーリに、顔、見られたくない…っ」
 一粒落ちればもう止まらなくて、涙がぼろぼろこぼれる。
 嗚咽を押し殺して、エステルは早足で歩く。
 ユーリはそれにもついてくる。
「ほら、泣くなって」
「い、いいんです…っ。もう、ユーリの意地悪っ」
 こんな顔見られたくないのに。
 ついてこないでほしいのに。

 ――――うそ。
 追いかけてきてほしい。
 離れていかないでほしい。

「わかった、とりあえず止まれ。目つぶるから止まって顔向けろ」
 ぴたりと隣を歩いていたユーリがエステルの腕を掴んで立ち止まった。
 そろそろと顔を上げてみると、本当に目を閉じて立っている。
(こんな優しい人なのに)
 うつむくエステルを、ユーリは目を閉じたままゆっくりと抱き寄せた。
 あやすように背中をたたく。
「言えって」
 いつものぬくもりに、エステルは深く呼吸した。
「…好きです」
「ん?」
「ユーリのことが、すごく好きです。大好きで、知ってるって言われるの
わかっていて、それでも伝えたかった」
「うん」
「…ごめんなさい」
 なんだよ、とつぶやく声に、エステルは少しためらってから続けた。
「他の女の子からチョコをもらうの見てしまいました。…ごめんなさい」
 その先は怖くて言えない。
 誰からも受け取らないで、なんて、勝手な願い。
「もらってないよ。今日は一個も」
「う、うそ」
「ホント。フレンから聞いて慌てて追っかけてくれば、大本命はさっさと
歩いてくし強がるしあげく一人で泣くし」
 頭上で疲れたようにユーリは笑った。
「よりによってバレンタインにそれはなしだろ」
「す、すみません…」
「不安にさせた、悪い。でもオレ、エステル以外からチョコレートもらう
つもりはないから。そこは信じてくれないとちょっとへこむ」
 抱きしめる力が強くなって、エステルはほっと息を吐く。
「…やっと、呼吸が楽になりました」
「こんなに抱きしめてるのに、エステルは余裕だな」
「そうじゃありません! わ、わかってて言ってますよねユーリ!」
「さあ? それより、オレ、大事なものもらってないんだけど」
 しらばっくれるユーリに、エステルは何とか反論を試みて、
「ユーリにあげるチョコなんてありませ…」
「お、これか」
「きゃああ!」
 片腕で抱きしめてもう片方の腕で器用にエステルのスクールバッグから
お目当てのものを取り出す。
「よし、ゲット」
「……悔しいです」
 腕から開放されたエステルはむむむ、とユーリをにらむ。
 エステルのその顔は愛しく思いこそすれ、恐ろしいとは微塵も思わない
ユーリはそっと口付ける。
 硬直したエステルに満足げに笑いかけて、その手の平の物を取り上げる。
「あ、それ」
「交換。ほれ」
 手渡されたのはレモンティーのパック。
「売り切れてたから買ったけど、エステルにやるよ」
 好きだろ、それ、とユーリはいちごオレを飲みながらエステルに言う。
「……ありがとうございます」
 歩き出した彼の隣に並んで、エステルはようやく笑った。
 右手に大好きな人の手を握って。