恋に堕ちる、それは

黒糖★ラブポーション

 焦りは隠しているつもりではあるが、それでも体は正直である。
 思い切り蹴飛ばしたボールは力の加減を誤ったせいで目的の場所から
若干外れてバウンドした。
「ユーリしっかりしろよー」
「おおわりぃな」
 味方のクラスメートに軽く手を挙げて、ユーリは棒読みで返事をする。
 ちらりと見たグラウンド、掲揚塔の下に彼女はいない。
 ほっとけない病に効く薬ってねぇのかなーと割と真剣に考えながら、
ユーリは地を蹴った。

 あ、とエステルは口元を押さえた。
 傾きかけた太陽がグラウンドを照らす、その下。
 ボールを一心に追う男子の中に、彼はいた。
(よかった、ちゃんといた…)


 一ヶ月前、バレンタイン。
 先に帰ってしまったエステルを追いかけて、ユーリは助っ人の約束を反故に
した。後日そのことを知ったエステルは真っ青になって、依頼してきた生徒に
謝りに行こうとした。
『いいんだって。ちょうど生徒会で手の空いたヤツがいたから任せてきたし』
『でもっ』
『他校との正式な試合なら話は別だけど、クラス同士の対戦なんだからいいの。
それともなに、エステルはオレが追いかけてこないほうがよかった?』
 そんなわけがなかった。本当は一緒に帰りたくて、でも自分の汚いところを
見られたくなくて、矛盾した感情の狭間でゆらゆらしていた。
 あの日の帰り道、告白現場を目撃してしまったことをユーリは怒らなかった。
 ヤキモチ? とそれはとても嬉しそうにエステルに尋ねてきたくらいで。
『…ユーリ、意地悪です』
 なんとなく悔しくて、上目遣いに睨んだがまったく効力はなく(というか一度
も効力を発揮したことがない)、なぜだかキスされる始末。
 心配しなくていいと頭を撫でられてしまうともう何も言えなくて、エステルは
真っ赤になって俯いた―――。

 唇の感触を思い出し、エステルはそっと指でそれをなぞる。
 本当に―――本当に意地悪で天邪鬼で、大好きで困ってしまう。
 手に持っていた本を抱きしめて、エステルは微笑んだ。
 今日は読書の前に、課題をやろう。いつ終わっても分かるように。
 大丈夫、今日はずっと待っているから。


「っていうか、今日駆り出したのって先月のアレだろ」
 休憩中にスポーツドリンクを飲みながらユーリは尋ねた。
「当たり前だろ。ユーリならテキトーに済ませられるようなジャッジとかフレン
にはできないだろうが。まぁ、1年のときよかだいぶ丸くなったとは思うけど」
 エステルには言わなかったが、生徒会で手の空いた人間とはフレンのことである。
「はっは。バレンタインにオレを頼ったことが運の尽きだな」
「それをほったらかしたことが今日のお前の運の尽きだ。お前だけホワイトデー
にいい思いなんてさせねぇよ」
 ふん、と得意げに腕組みしたクラスメートにユーリはぼそりと呟く。
「いや、別にすぐ終わるだろこの試合…」
 自分達の体力よりも、おそらくは図書室にいるエステルの忍耐力が勝つのだから。

 ピー、とホイッスルが鳴る。
「勝ったー!!」
 歓声があちらこちらで上がる。
「ユーリサンキュ!助かったよ」
「どーも」
 何人かとハイタッチして、ユーリは掲揚塔の下を探す。やはりいない。
 図書室だな、とユーリはシャツで汗をぬぐう。
 直に置いていたかばんと上着を取り上げて軽く砂を落とす。少し白い。まあいいか。
「んじゃ、オレは帰るよ」
「おう。また頼むな!」
 振られた手に振り返して、ユーリは校舎へと走り出した。

 かすかなホイッスルに、エステルは顔を上げた。
 持っていたシャープペンを置いて、エステルはグラウンドを見下ろす。
 探していた影を見つけて、エステルの顔が思わずほころんだ。
 
 図書室の扉をあけると、奥まった席でエステルが顔を上げた。
 小さく手を振って歩み寄る。
「お疲れ様でした」
「待たせた、悪い」
「いえ、わたしも課題やっていたので全然」
 本を戻してくるので待っててください、と言ったエステルにユーリは苦笑した。
「分厚い本はオレが持つよ。ホワイトデーだし」
 カノジョに尽くさないといけない日、だろ?
 そう言って少し顔を近づければ頬を染めてエステルは俯く。
「ありがとう、ございます」
 蚊の鳴くような声で礼を言うと、エステルは取り上げた本を持って歩き出した。
 かばんと上着をそこに置いて後ろをついてくるユーリに、エステルは振り返って
首を傾げた。
「どこにしまうかわかんねぇから、分担作業は無理」
「じゃあ一緒に回りましょう。位置を覚えるの楽しいですよ」
 便利、ではなく楽しい、とくるのがエステルたるゆえんだろう。
 迷うことなく進むエステルの背を見ながら、ふとユーリは周囲を見渡す。
 閉館時間が近いからか、生徒の数は少ない。
 クラスメートの声がよみがえって、ユーリは薄く笑う。

 残念だが、お前のもくろみどおりにはいかねぇな。

 高い棚に爪先立ちして本をしまおうとしているエステルの後ろから本を取って、書架
に戻す。…出すときはどうしたんだこいつ。
 首だけユーリのほうに向けて、エステルは笑う。
「ありがとうございます。台があるはずなんですけど…」
 見回したエステルに、ユーリは「なぁ」と声をかけた。
 本を持ったまま、ユーリはエステルの両側に手をつく。
 正面は書架、背後はユーリ。逃げられないように閉じ込めて。
「なんで…」
 振り返ったエステルに口付けを落とす。
 みごとに石化したエステルに、ユーリは「キス」とだけ言った。
 その一言で石化が解けたエステルの顔がみるまに朱に染まる。
 エステルの体が反転できるように、一瞬手を書架から離す。
 予想通り、エステルはユーリに向き直った。
「突然なにするんです!? ここ図書室…っ」
 驚愕を体全体で表しながらも抗議は限りなく小声なエステルに、ユーリはふっと笑った。
「誰も見てないって」
「そういう問題じゃありませんっ」
「じゃあどういうところが問題? オレはいまんところ一個しかないけど」
「一個だけ…!?」
 真っ赤な頬に手を添えて、ユーリは鼻先まで顔を近づける。
 息を呑んだエステルに、ユーリは低い声でそっと告げる。
「まだ余裕があるエステルが問題。―――慣れって怖いのな」
「〜〜〜そんなわけないでしょう!? これのどこが余裕あるように見えるんですか!」
「慌ててるわりに抗議が小声のままだろ。余裕あるだろ」
「なななないです!!」
「ふぅん?」
「ユーリ!」
 抗議する声を唇で封じて、沈黙が落ちる。

『……まもなく図書室は閉館いたします。室内の生徒の皆さんは下校をお願いします。繰り
返します。図書室は……』
 聞こえたアナウンスに、ユーリはゆっくり顔を離す。
 離れた熱に名残惜しさを感じながら、それでも表面上は取り繕う。
「さて、残りも片付けるか」
 唇を手で押さえて、エステルはへなへなとしゃがみこむ。
 本当に、なんて人を好きになってしまったのだろう。
 いつだってドキドキしているのに、これ以上はきっと心臓が破裂してしまう。

 背を向けてラベルを追う背中に、エステルは小さく「意地悪です」と呟いた。