聞けなかったその先を
 そのさきにあったことばを、あたしは知らない。





                            その先の、



 いまなら忙殺という言葉の意味が分かる気がする。
 机にある資料と、肩と首にかかる痛み。
 腹が立つのを通り越して、何も感じなくなるくらいの嫌がらせの手紙。
「そんな暇なら働け、ごくつぶしが…っ」
 でろでろと暗雲が立ち込めそうな物騒な声音で、アニス・タトリンは呟いた。





 預言をから離れた世界。
 アニスは、別れ際にルークに宣言したようにローレライ教団を復興させるために日々奮闘していた。

 導師イオンの突然の訃報――――そしてその後継として現れた、導師そっくりの少年。
 世間には兄弟だと公表して、少年フローリアンは現在、導師としての諸々を勉強中。
 ……とはいえフローリアンはまだ世界のことが何も分からない。
 ということで、導師としての勉強といいつつ、まだまだ一般教養のことしか勉強していない状態だった。
 それの教育者と導師守護役を兼ねて抜擢されたのがアニス。
 平民上がりで、まだ若いアニスがその役につくことは当然ながら反対された。

 しかしそこに、キムラスカ王国王女の推薦が入ったことで、反対派を押し切った。
『アニス・タトリンは、私や導師イオンとともに世界のために尽力してくれました。金銭面では少々細かい
ところもありますが、頼れる仲間です。なにより導師イオンの導師守護役として、常に傍にいましたわ。
彼はアニスを信頼していました。彼女が解決できない問題は周りがサポートすればよいのです。次期導師、
フローリアンのことは、彼女に任せましょう』

 あとになって聞かされたナタリアの言葉に、アニスはふかく感謝した。
 そしてその後、フローリアンをダアトに連れ帰ったことをローレライ幹部が聞きつけて、勝手にイオンの
後継者としてフローリアンの存在を発表した。
 まだ幼いフローリアンを、どうして自分達の都合でそんな重責を背負わせるのか。
 激怒したアニスが闇討ちをかけようとしたのをかつての仲間がいさめ、この形におさまったのだ。

 そしてそれから、ローレライ教団側からフローリアンをサポートする人間を見つけ、また彼が導師として
働けるまで、代理としてアニスが馬車馬のごとく働いていた。



「ああもう、紙だってタダじゃないのにまったく! こいつらの給料から抜いてやりたい…っ」
 嫌がらせの手紙をゴミ箱に投げ入れながら、アニスはその中の一通をギリギリ握りしめた。
 給料から引いてやりたいが、氏名が書かれていないので特定できない。
「やるなら堂々と嫌がらせしろっての!」
「そんなに怒ってるとしわが取れなくなっちゃうよ、アニス」
 突然聞こえた声に、アニスはハッとした。
「フローリアン! あんた、勉強は?」
「休憩なんだ。アニスとおしゃべりしようと思って来たら、なんか怒ってるんだもん。どうしたの?」
 首を傾げたフローリアンに、アニスは引きつった笑みを浮かべた。
「あー、えっと、その、ちょっと面倒な仕事があってさ。イライラしちゃったんだよねぇ」
「無理しないでね。何かあったら言ってね」

『無理しないでくださいね、アニス。なにか僕にできることがあれば言ってくださいね』

 ふと、声が聞こえた気がした。
 アニスは当たりを見回すが、その声の主はどこにもいない。
 ツキン、と微かに胸が痛んだ。
「…アニス?」
「…あ、ごめんごめん。なんでもない。ちょっとぼーっとしただけ」
 ――――いるはずがない。『彼』はもう消えてしまったのだから。


 1年前。
 ザレッホ火山で第7譜石を詠んだ後、まるで風に溶けるようにイオンは――――消えた。
 それが自分のせいだということも、十分すぎるくらい分かっていた。
 大好きな人を裏切って、裏切って、なんでもない顔で嘘をついて。そして。
 いくぶんか穏やかな気持ちで思い出せるようになったのは、1年くらい前からだ。
 それまでは自責の念に駆られて、彼の声を思い出すことも、姿を浮かべることも、怖くてできなかった。
『――――今まで、ありがとう。僕の一番…大切な……』
 優しい微笑みには、まだ胸の奥が痛む。
 けれどあたたかな気持ちが同時に生まれていることも事実だ。
(そういえば、あの時イオン様はなんて言おうとしたのかなぁ…)
 もちろん、もうその答えは聞けないけれど。

 そんなささやかな疑問もすっかりさっぱり忘れた数日後。
 日課となっているフローリアンとの昼食のために、アニスが彼の部屋に行ったときのこと。
 ノックしようと上げかけた手をとめる。
「――――さま、そろそろ新しい導師守護役をお決めになりませんか? アニス・タトリンだけでは回らな
い業務もいずれ出てきましょう。それに、限られた交友関係ですとのちのち困るのはフローリアン様です」
 それは、幹部の中でもまだ年若い男の声だった。どうやらアニスの他にも守護役をつけようとしているらしい。
(あたしだけじゃやりきれない、ですってぇ?)
 アニスの眉間にしわが寄った。
 かりにもイオンの下でそれなりに働いてきた、同僚の中でも出世頭であろうあたしが力不足とでも!?
 日々へとへとになっているのは確かだし、フローリアンが自分に依存しすぎるのは問題だと思うけれど。
 まだ彼はローレライ教団についても、世界についてもわからないことだらけだ。
 下手に他人をそばにおいたら逆効果だ。いや、刷り込みするなら早いほうがいいか。

 などなど考えていたアニスの耳に、フローリアンの無邪気な声が入ってきた。
「ううん。今はいい。アニスと先生たちがいてくれるから」
「しかし」
「アニスは僕の一番大切な人だもん。アニスと、その友達と、先生たちともっと仲良くなりたい。だから、
今はいらない」
 数秒間、アニスは硬直した。
 こんなはっきり自分の意見が言えるとは思わなかったし、それに。
『――――僕の一番、大切な…』
 消えてしまった、大好きな人の声がよみがえる。
 イオンがあの言葉の先に言おうとしたことを聞いたような錯覚がした。
(……イオン、様…)
 心の中で、もう聞けない答えを求めるように呼びかける。
(あの言葉の先は、そういうことだったの?)
 なんて都合のいい解釈だろう。こんな情けない姿、誰にも知られたくない。
 ゆっくりとアニスはその場を離れた。

 ベンチに座り、ぼんやりと青空を眺めていたアニスを、フローリアンが横から覗き込んだ。
「わぁっ。び、びっくりした」
「もう、待ってたのにアニスが来ないんだもん。迎えにきたよ。おなか減ったー」
 ストン、とアニスの横に腰掛ける。
「ごめんごめん。はい、今日のお弁当」
「ありがとっ!アニスのご飯大好き」
 満面の笑みで受け取り、いそいそと包みをほどく。
 それを見ていたアニスは、緊張しているのを隠して明るく問いかけた。
「お弁当だけ? あたしのことはどうなの?」
「好きだよ! アニスが好きだから、アニスの作ってくれたご飯も好き」
 即答したフローリアンに、アニスは苦笑した。
「なにそれ。変な理屈」
「本当だよ。アニスは、僕の一番大切な人だよ」
 その言葉を聞いた瞬間、アニスはハッとした。
 ふわっと微笑んだフローリアンに、イオンの柔らかな笑みが重なる。
 目の奥に熱が生まれる。
 アニスはあわてて顔を背けた。
「アニス? どうかしたの? ごめん、なんか悪いことした?」
 自分も泣き出しそうな声音で、フローリアンはおたおたと問いかける。
「ううん。違うよ。全然…違うから、大丈夫」
「ほんと?」
 深呼吸をしてから、アニスは笑った。
「うん。ほんと」


 その先にあった言葉をあたしが知ることはない。
 でも、ねぇイオン様。
 うそついてたけど、あたしはあなたを傷つけてしまったけれど。
 それでも、あの言葉の先。
 イオン様があたしのこと好きだったって、そう言ってくれたって期待してもいいかな?
 あたしと同じ気持ちを、イオン様も持っていたんだって。
 ――――その先の言葉を、あたしは知らない。 
                                        


 


アニスはジェイドでもいいんだけど、私はイオン様とカップリングさせるのが好きです。
初めて買ったアンソロがイオアニだったってことが大きいかも…。
でもこれ、フロ→アニス→イオンっぽい構図だよ、ね…。誰も報われないこの構図!(爆)
それにしても、ヒーロー×ヒロインがアップしてないってどうなんでしょう。
年内にひとつは!ひとつだけは!