彼女の杞憂~あるいは彼の歯がゆさ~

 世界は新しい姿へと生まれ変わりつつあった。
 しかし、変わらずにあるものもいる。

「わたし、ユーリに嫌われてるんでしょうか」
 その呟きに、リタとパティはきょとんとした。
 帝都ザーフィアスにある城内の、エステルの私室。
 ハルル移住にむけての準備も兼ね、女性陣はこの日半年ぶりに再会した。
「……は?」
 意味が分からない、というようにリタが声を上げると、エステルはだって、と言った。
「最近のユーリ、少し意地悪なんです。嫌われるようなことしてしまったのかなって」
「あいつのひねくれ屋は会ったときからそうじゃないの」
 傍から見ていて、ユーリがエステルを嫌いとはまったく思えないのだが。
「どういうところで、意地悪なのかしら?」
 エステルの突然の呟きにも平然としていたジュディスが小さく首を傾げた。
「ええと、たとえば昨日だと…『そんなに本ばっか読んでるとマジで本の虫になっちまうぞ』とか、その前だと『どっかのほっとけ
ない病の姫さんに仕えるフレンは気苦労がたえねぇなー。胃薬でも持ってったほうがいいか』とか…『嫁の貰い手がなくなるぞ』とか」
 指折り数えていくエステルに、リタとパティは胸中で呟く。
(前とどっか違うかしら…)
(変わらんがのぅ)
 外で木が小さく鳴った。ジュディスはそちらをちらりと見てからエステルに問う。
「前とどう違うのかしら。普段のユーリだと思うけれど」
「だって、前は読んでる本の向こうからいきなり顔出したり、本取り上げて隠しちゃったり、この前は抜け出すための
窓に変な細工をしたり…。以前はこんなことなかったのに」
 ティーカップの縁を指で撫でながら、エステルは肩を落とした。
「っていうか、抜け出しちゃダメじゃない」
「ちゃ、ちゃんと理由はありますっ。魔物が下町に侵入してきたので、避難の誘導のお手伝いをするために行ったんです。
騎士団が各地に散っていたので人手もなくて、それで…」
 ヨーデルにも許可はもらってたんですが、通達されていなかった騎士に出してもらえなくて仕方なく。
「焦るのは分かるけれど、無理はいけないわエステル。あなたの行動が大きく人々に関わるってこと、知っているでしょう?」
「ごめんなさい…」
「話戻すわよ。エステル、今言ったこと冗談抜きでされたの?」
「全部本当です。本の向こう側からユーリの顔が出てきたときはびっくりしました」
 赤くなるエステルを見て、3人は「どこの子供だ」と声なき声で突っ込んだ。
 好きな子を振り向かせたくてやってしまう男の子の典型的なタイプ。
 はっきり言ってくだらなさすぎる。が、正直に受け止めすぎるエステルもどうなのか。
 リタはため息をついた。 
「まったく、どこのがきんちょよ、馬鹿っぽい。エステルもエステルよ。それ、杞憂ってヤツだから」
「杞憂、です?」
 きょとんとした顔のエステルに、外見は幼いがじつはかなり年上な少女も言う。
「かっこいい大人な男で終わらないのがユーリじゃな」
 腕組みしてなにやら自己完結しているパティを見て、エステルはいよいよ困ってしまった。
「あの…全然分からないんですが…」
「読書の邪魔をするのは、自分をその分見てほしいから。カロルに頼んでわざわざ窓に細工したのは、あなたの力を極力
使わせないため…かしらね?」
 優雅にティーカップを持ち上げながらジュディスはエステルに微笑んだ。
「…それって、どういうことです?」
「さあ、どういうことかしらね。本人に聞いてみるといいわ。ねぇ、覗き魔さん?」
 ちらりと窓を見たジュディスに、リタが椅子を蹴倒して窓を開けると。
 室内からは死角になる枝に座ったユーリが、渋い顔をしていた。
「なにしてんの覗き魔!」
「その覗き魔ってのやめてくれ。フレンに殺される」
「一回そうしてもらったら? まったく、ほんっとにじれったいわねあんた達」
 帰る、と唐突にリタが扉に向かって歩き出す。
「え? 帰ってしまうんです? 城門まで見送りますよ」
 立ち上がりかけたエステルを、ジュディスが座らせる。
「ここでいいわ。ユーリのお相手よろしくね、エステル」
「またの!」
 止める間もなく出て行った3人を、なかば呆然としてエステルは見送った。

 ひょい、とベランダから入ってきたユーリに向かい合い、エステルは最近の仕返しをするように尋ねた。
「今日はどうしたんです? 覗き魔さん」
「近くを通りかかったから様子を見にきたんだよ、お転婆姫さん」
「…やっぱり、ユーリは意地悪です」
 余裕しゃくしゃくな体で切りかえしたユーリに、エステルは下から睨む。
「で、ジュディの言った意味は分かったか?」
「分かりました。ユーリはわたしのことおもちゃみたいに思ってるんでしょう?」
 思考が凍結した。
 聞き返すこともできないユーリに、エステルは続けて言う。
「だから決めました! 今度から意地悪言ったらユーリとは話しません。呼ばれたって返事しません。
謝ってくれるまで、絶対話しません!」
 ぷいっと横を向いてティーセットの片付けを始めたエステルを見て、ようやくユーリの思考が動き出した。
(まったくこいつはなんでこう斜め30度の思考に行くんだよ)
 ようやく理解してくれたと思ったのだが、やっぱりエステルはエステルだった。
「エステル」
「……」
「エステル、おーい」
「……」
 宣言どおり、返事もしない。顔も向けない。
 こうとなったらてこでも譲らないエステルに、ユーリはため息をついた。
 かたくなな背中に、そっと手を伸ばす。

 向かないなら向かせるまで。

 背後からの突然の抱擁に、エステルは息を呑んで硬直した。
「エステル」
 それが彼のものだと認識して、それでも宣言は覆さないとばかりに唇を引き結ぶ。
(こ、これだってわたしが慌てるのわかっててやってるんです。絶対そうです!)
「エステル」
 耳元で響く声が鼓動を速くして、その体温が立っているのもようやくなくらい体を熱くして。
 目の奥で熱が生まれる。瞬きしたら、唇を開いたら雫になってしまいそうで、だから。
「エステル」
(返事なんてできない……)
「エステル――――好きだ」
 びくりと肩が上がる。思いがけない告白に頭が真っ白になって、涙まで引っ込んでしまった。
「本を隠したのは、本にすらエステルをとられたくなかったから。窓の細工は、いつも無事を確認できない
上に突っ走ってくお前を少しでも止めたかったから。だいたい、久々に来たオレより読書優先ってのはひどく
ないか? ま、らしいっちゃらしいけど」
 どうせなら気づいてほしかったけど、とユーリはのんびり言った。
「ま、しょうがねぇな。困らせて悪かった」
「……どうして…」
 小さな問いかけが耳に届いた。
「どうして、こんなときだけ、そんなこというんです…っ。ユーリはずるいです」
「そりゃ、これから先エステルが見てくれないのはごめんだからな。意地悪するのには理由があるんだって、
知っておいてもらわねぇと」
 エステルが自分を想わない時がないように。
 笑ってしまうくらいの独占欲で彼女を愛していることを、天然な彼女に気づいてほしい。
 肩にそっと手を置いて、彼女を半回転させる。
「エステルはどう? オレのこと嫌いか?」
「ユーリは本当に意地悪です…」
 真っ赤になったエステルがついと顔を上げる。
「嫌いなわけないじゃないですか。わたしは」
 言いかけたエステルの唇を、ユーリはすばやくふさぐ。
 これも意地悪に入るのだろうかと、頭の片隅で考えながら。

 

(その言葉の続きは聞かなくても分かってる)