柔らかなその光は

 解き放たれた呪縛。
 自分が連れ去った心優しい少女が、拳ひとつでこの身を断罪した青年のもとに倒れこむ。
「おかえり」
「ただいま…」
 久方ぶりに穏やかなやり取りを聞いて、俺は、ようやく一つの区切りをつけられる気がした。     

 

 

きみは月に似て



 


「よかったよね、エステルが戻って来れて」
「何言ってんの、あんた。このあたしがついてて万が一なんてこと、あるはずないでしょ」
 戦いの後、エステルはユーリと短いやり取りを交わしてすぐがくりと気を失った。
 アレクセイの手によって無理矢理に使わされていた力の代償が一気にあふれたようだった。
 傍目からでも分かるエステルの気絶も驚いたが、その向こうのユーリが慌てているのが無性におかしくて。
 その光景を目にしているこの身のしぶとさにもおかしくて。
 ――――ああ、泣きそうだ。
 絶対に見ることのないと思っていた世界を、奇跡を、自分はこうして見ている。

「……変な顔」
 思惟から引き戻した少女の声に、レイヴンは気取られないようにおどける。
「ちょっとリタっち~、傷つくこと言わないでちょうだいよ。おっさん繊細なんだからっ」
 ちっと舌打ちするリタと、苦笑いを浮かべるカロル。
「それはそうと、帰ってこないわね、ユーリ」
 ジュディスが首をかしげながら扉を見る。
 離れていた時間はそう長くはない。それでもずっとずっと心配していたのだろう。
 絶望におちた彼女の言葉を聞き取ったのは、ユーリと自分だけのようだった。
 話すと揺らぎそうだと言っていたのは、数少ない、偽りのない言葉だったんだろうと思う。


 死人だと、ずっと思っていた。実際そうだった。でもそんなくだらない理由はもう捨てる。
 今ここにいる彼らは無条件で許すことはしなかった。
 全員から強烈な一発をお見舞いされ(とくにジュディスちゃんの一発はかなりの打撃だった)、あげく命の使い方まで
握られた。
 彼らはそうしてくれた。
 ――――だが彼女は、まだ。
 アレクセイだけに押し付ける気はない。結局俺も同罪だ。
 嬢ちゃんが帰ってきたとき、俺はほっとしたんだ。
 うれしかった。

 ほかでもない。自分のために。

 あのまま嬢ちゃんが死んでいたら、俺の罪は払拭されないまま、区切りのつかないまま。
 だから戻ってきてくれて安堵したんだ。
 汚い、薄汚れた自分勝手な願いがあることを否定できるほど、俺は馬鹿じゃない。
 リタっちやジュディスちゃんやカロルほど、単純に喜べる条件こそ、揃ってはいなかった。

「いやだジュディスちゃん、野暮なこと言わないの。察して察して」
「なにが野暮だ。くだらねぇこと言ってんな」
 ぎょっとして振り向くと、心底呆れた、という顔をした当人が立っていた。
「あ、あらたいしょー、いつの間に」
「おっさんが物思いにふけってる間に。だいたいおっさんの望むような展開、あるわけないだろ」
 やれやれとソファに腰を下ろしたユーリにカロルが心配そうに尋ねる。
「エステル、どう? 様子見に行っても大丈夫?」
「さっき目覚ましたから大丈夫だと思うぜ」
「じゃ、じゃあ行ってくる!」
 ぱっと顔を輝かせたカロルが部屋から飛び出していく。
「ちょっとがきんちょ、エステルはまだ安静にしてなきゃだめなのよ! ああもう馬鹿…!」
 がしがし頭をかき、リタはカロルの消えたほうをにらむ。
「心配なら行ってきたら? 私たちは後で行くから」
「う…っ、そ、そうね。カロルがはしゃぎすぎたら迷惑だし、行ってくるわ」
 自分だって駆け出したいくせに、リタはなんでもないようにカロルの後を追う。
 ほぼ競歩に近い速度だとわかっているのだろうか。
「おじさまも、二人が戻ってきたら行くでしょ?」
「そうねぇ。カロルたちが戻ってきたら行きますかね」


 どういえば、贖いになるのだろう。
 眠っている少女の顔を見ながら、レイヴンは答えの出ない問いかけを繰り返していた。
 連れ去る前の彼女の顔が離れない。
 翡翠の瞳がレイヴンを見て、その手の魔核を見て、自分の手を見て。
 透明さが増した。
 崩れ落ちたエステルを無造作に抱え上げて、レイヴンは転送魔導器を発動させた。
(……どう言えばってか…全部言わなきゃいけないよなー…)
 彼女には知る権利がある。
 どう言えば彼女に少しでも憎んでもらえるのかと考えるあたり、やはり自分は汚いなとレイヴンは思った。
 ふと、エステルが身じろいだ。
「――――…レイ、ヴン…?」
 焦点の合わない目がゆっくりレイヴンを見て、かすれた声で呼ぶ。
「うん。おはよう嬢ちゃん」
 それきりなんとも言えず、レイヴンは黙ってしまった。
「よかった…無事だった…」
 その言葉にのろのろと顔を上げれば、常と変わらず微笑むエステルの姿があった。
「御剣の階で…助けてくれた時、…辛そうだったから…。体調はもう、いいんです?」
 ――――こんな最低な馬鹿野郎に、どうしてそんな言葉がかけられるのだろう。
 辛かったのはエステルだ。泣いていたのはエステルだ。
 レイヴンは息を吸い込んだ。
「…うん。あのさ、嬢ちゃん。俺、話さないといけないことがあるんだ―――」


 ぽつぽつ話す合間に、エステルは時々頷いた。レイヴンをまっすぐ見上げたまま、話が終わるまでずっとそうしていた。
 ゆっくり目を閉じ、それからエステルは緩慢に起き上がった。
「おいおい、まだ起き上がんないほうが」
「大丈夫です。…レイヴン、ひとつお願いを聞いてもらいます」
 エステルにしては珍しい断定的な表現に少し戸惑いつつ、レイヴンは頷いた。
「殴らせてください」
「…………はい?」
「殴らせてください。みんながやったのと同じように」
「嬢ちゃん、それは」
 言いかけたレイヴンの頭にポカリと一発、拳骨が落ちる。
「これでおあいこです。ね?」
「ね、って嬢ちゃん…」
 これだけで済ます気なのか。本当に?
「わたし……悲しいです。けど、それ以上に、なんだか自分に怒ってるみたいです」
 仲間が負っているものの大きさに、その存在に全く気づけなかった。
 思い起こせばいくつもサインはあったのに。
「だから、今のわたしのこの痛みと、レイヴンがわたしに殴られた分で痛み分けです」
 だからもういいと。どこにも行かずにここにいてくれればいいと。
「……参ったね、どうも」
 久しぶりに感じたあたたかさに、目の奥が熱くなる。
 ――――ああ、泣きそうだ。
「大丈夫です? 痛くしすぎました?」
「いんや。…ありがと嬢ちゃん。おかげで目が覚めたわ」
 憎んでほしい、赦さないでほしい。でも。
 赦してほしい、せめて少しでも償いたい。
 そう思っていたのも事実。
 その思いを否定できるほど、自分は。

 

 

 エステルに休むように告げて部屋を出たレイヴンは、ガラス越しに空を見上げた。
 どこまでも続く闇の中。
 星粒に囲まれた月が柔らかな光を放っていた。