◇NO.2

 突然、目が覚めた気がした。   
「……え?」   
 ここはどこだろう。自分はティアとお茶を飲んでいたはずなのに。   
 彼女の姿はなく、今いるところは城内ですらないようだ。   
 しかもなにやら服も違う。   
 胸元に細い藍色のリボンが結ばれた、青いふわりとしたワンピース。その上に肩と裾にフリルが
ふんだんにあしらわれたエプロンが、腰の辺りの大きなリボンで結わえられている。
 靴もヒールのあるものではなく、こげ茶の編みブーツ。
「これは、もしかしてあの少女の…?」
 不思議の国に迷い込んだ、あの少女の格好ではないか。
 頬を押さえ、ナタリアは一瞬途方にくれた。
 一瞬だけ。
「迷子になったナタリア姫は永遠にその世界から出られないのでした。完」
 背後で聞こえた台詞に眉をひそめて振り返る。
「なぜここにいますの? ジェイド」
 ナタリアの険しい顔もなんのその、ジェイドは(無駄に)爽やかな笑顔で応じる。
「この世界では進行役なんです。配役に頭を悩ませたどなたかの苦し紛れの策です」
 たしかに鮮やかな青の軍服ではなく、黒の燕尾服を着ている。
 いろいろ突っ込みたい箇所もなくはないが、とりあえず状況の分かるらしい人物が現れたので
ナタリアは立ち上がった。
「進行役ならば、この状況が分かるのですね。ここは一体どこなのです?」
「おや、その服で分かるかと思いましたが…。不思議の国に迷い込んだ少女の話はご存知です
か? あの物語の冒頭部分ですよ」
 知っている、が。
「こんな静かだったかしら…」
 たしか、少女の姉と猫がいたはず。
「いないように設定しろと脅されましてねぇ。私としては第三者はいたほういいと言ったんですが」
 そのほうがストーリー性がありますし、なにより楽しそうでしたしねと付け足す。
「…誰にですの?」
「アッシュですよ」
 目を丸くしたナタリアにジェイドは困ったように続けた。
「全く困った人です。決めたのは作者で、私には何の権限もないと言っても最後まで渋るんです
から」
「アッシュがそんなに嫌がることを組み込んであるのが間違いなのですわ!」
 間髪いれずに叫んだナタリアに、ジェイドは「おや」と目を瞬かせた。
「あなたも見たいと思いましたが。普段しない格好ですし」
「髪を結んだり、服が暖色系になったりですか?」
 神託の盾騎士団に所属している彼はグレーが基調の軍服を着ている。
 たしかに珍しいかもしれない。
「いえいえ。もっとありえません。……おっと、そろそろ次へ進みませんと。道すがら、簡単に説明
しますよ」
 懐から出した懐中時計で時刻を確認すると、ジェイドは歩き出した。
「シロウサギとも会ってませんわよ。この世界、おかしくありません?」
「それも後ほど」
 適当ですわね、とナタリアはため息をついた。
「仕方ありません。でも話の本筋は変わりませんから心配はありませんよ」
 こともなげなジェイドの横顔を、ナタリアは軽く睨んだ。
「わたくしやアッシュに比べて、あなたはずいぶんと楽そうですわね」
「とんでもない。あなたに同行してなおかつ他の出演者のタイムスケジュールを管理し、話をより
面白くしなくてはいけないんですよ。こんな役押し付けられた身にもなってください」
 はーぁ、とため息をついているが。
 隣を歩くどう見ても楽しげな進行役ジェイドに、ナタリアは呆れてしまった。
 アッシュ云々も、彼しだいでどうにでもなりそうだ。
「そういえばそのアッシュは今どこに?」
「ああ。彼ならそこの穴に先に落ちました」
 そこ、と示されたのは大木の根元。
 立ち止まったナタリアは、人一人やっと通れるそれを見つめた。
 さわさわと、鮮やかな緑が二人の上で揺れている。
 爽やかに吹き抜ける風を感じつつ、ナタリアは漸う口を開いた。
「ここにアッシュが入って、落ちたんですの?」
「はい。ああ、そんなに深くありませんし、落下速度も蝶が飛ぶくらいです」
 深さだとか落下速度とかはこの際関係ない。
 夜の闇より深いその空間に入るのはさすがにためらう。
 だが一方で、アッシュが進んでいったなら少なくとも命の危険はないはずだ。
 そっと手をのばしてみる。

 体が浮いた。

 悲鳴をあげたのは、重力にしたがって落下していると頭で理解してからだった。
「きゃあぁぁぁっ。……あら?」        
 落下しつつ、ナタリアはふと我に返った。        
 頭から落ちたはずがいつの間にか反転し、スカートがパラソルのように広がっている。        
 落下速度が緩やかになっているのはこのおかげも若干あるかもしれない。        
「だから大丈夫だったでしょう? このままゆっくり降りていきます。そのあとに道なりに行けば        
次の場面の部屋に辿りつけますから」        
 ナタリアの斜め上を、やはり同じようにゆっくり落下しながら眼鏡を押し上げる。        
「びっくりしましたわ! もう、やはりあなたの役と交換してほしいくらいです」        
「それはさすがにクレームがくると思いますが」        
 お笑い路線なら問題ないが。        
「……そうですわね」        
 前言撤回。        
 ぐるりと周りに目を向けると、そこにはたくさんの肖像画が飾ってあった。        
 穴の入り口からは深淵の闇だったが、中はランプが灯っていてほんのりと明るい。        
 自分のものもあるし、アッシュやルークたちの絵もある。        
 いつ描かれたか分からないものもいくつかあるが、それはここが不思議の国だからだろう。        
 ナタリアはそれらをじっくり見ながら、緩やかに降りていった。 

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